伝・真田幸村の墓

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村から約1KM ここから400Mは徒歩で

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真田幸村潜伏か!

歴史上の武将ランキングで常に上位に人るだろう、その一人に真田幸村がいる。大阪夏の陣で徳川家康をあと一歩、というところで武運が尽き安井神社(大阪市天王寺区)の境内で討取られてしまった。しかし、夏の陣後、大阪ではとあるわらべ唄が流行る。「花のようなる秀頼様を、鬼のようなる真田がつれて退きも退きたり加護島へ」。わらべ唄に対応するかのように、南九州市頴娃町雪丸地区には、薩摩へ逃れた真田幸村らがそこに住んだという伝説がある。旧頴娃町の郷土史によれば『元和元年(1615年)五月の大阪夏の陣のあと、薩摩に豊臣秀頼をはじめ、真田幸村・木村重成など1000余人の大阪残党が逃げてきたという(鹿児島外史)。真田幸村は入薩後、氏名を芦塚左衛門と改め、当初谷山に潜伏していたが、その後、頴娃郷淵別府(一説には雪丸集落)に移り住んだという。そうして、摺木の百姓娘との間に子どもが生まれたが、この子をあとに真江田某と呼び、苗字帯刀が許された。大川に現存する真江田家はその子孫であるといわれ、真江田は真田をもじったもの、また、雪丸(ゆきまる)も幸村(ゆきむら)をもじったものだといわれる。雪丸集落に幸村の墓といわれる「六文銭」の紋所のついた墓石があるということである。」しかし、南九州市文化財課によれば写真にあるその墓石には六文銭の紋所は見当たらない。真田家にゆかりのある人物がいたのか、幸村に同情する土地の人物が伝説として仕立てたのか真偽はわからないが、実際に幸村が生きていたという新たな証拠が出てきてほしいと思う。

  かごしま情報マップ 旅遊〜ん(たびゅ〜ん)2011.3.4

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